福沢桃介が残したもの

大桑村史上巻 第十五章 発電事業の歴史 の内容を要約してみた。

大正時代の河川利用の手順

大正時代の河川利用の手順は以下のとおり。
企業 -> 県と逓信省へ河水使用(水利権)の許可願い -> 地元町村の意見聴取 -> 許可判断
地元への聴取ポイント:
1.灌漑その他の水利事業に及ぼす影響
2.舟筏の通行、流木及び漁業に及ぼす影響
3.名勝旧蹟に及ぼす影響

重要登場人物

島崎広助:馬籠銃旧本陣島崎正樹の長男、島崎藤村の兄。母の生家である妻籠宿旧本陣島崎与次右衛門の養子となり明治17年に妻籠村の戸長となる
福沢桃介: 福沢諭吉の娘婿、一河川一会社主義の実現を目指す

事の推移

島崎広助の1回目の活動
 水利権を得ようとする企業との交渉窓口としての役割を担うべく西筑摩郡下町村長に打診したが不成立。結果、各町村がばらばらの交渉となり、企業主導の条件での契約となった。一方、福沢桃介は名古屋電力を合併し、福島・田立間の水利権を獲得していた(名古屋電力:福島・大桑間の水利権を日本電力から譲り受けていた会社)。

水利権獲得に当たって最も大きな課題は流材問題だった。その当時は木曽川やその支流を切り出した木材を運搬する手段として使っていた。当時大同の取締役だった増田次郎(2代目社長)は政治家後藤新平を福沢に推薦し、後藤は福沢の依頼を承諾。増田が中央線各駅に接続する森林鉄道の敷設を帝室林野局と進める。大正6年3月に長野県は発電所計画変更計画に対して許可命令書を出した。この森林鉄道敷設は企業側の費用負担で行うことが条件。

変更前の計画:田立、大桑、駒ヶ根(上松)の3発電所
変更後の計画:賤母、読書、大桑第二(大桑)、大桑第一(須原)の4発電所

島崎広助の2回目の活動
 この変更計画は木曽川流域町村に大きな影響を及ぼすものだったため、再び島崎広助が大同電力と交渉を行おうとしたが、福沢桃介の裏工作により町村の協力が得られず運動は中断。

賤母・大桑の両発電所の工事が始まると、残土問題や土地所有権問題が多発し、企業側による暴力行為も発生した。また命令書に基づく木材搬出のための軌道敷設や道路整備を行わず民材運搬に大きな支障が発生。また申し訳程度の魚梯では魚が遡上できなかった。住民代表が県に請願を出すも成果なし。

島崎広助の3回目の活動
 この状況を知った島崎広助は、駒ヶ根村(上松町)を除く15の町村長の合意をとりつけ代表として、岐阜の木材業者平野増吉をメンバーに加え、大同電力との交渉にあたった。しかし、福沢桃介の工作により再び状況は混乱した。野尻妙覚寺にて群民大会を開催するところまで進んだが、当日の会社側妨害工作により、途中解散となる。島崎は会社側による暴力行為を県や内務省へ訴えたが、県も警察も動かなかった。福沢桃介は補償金額を想定範囲に収めるべく、島崎広助の失脚工作を行い、結果として島崎は自ら退くこととなった。

なお、殿・小川、阿寺川の引水に関しては村が特に漁業への影響から拒否をし、実現には至らなかった。

木曽川水利権の結末

 島崎が退いた後、町村長は県知事に判断を一任。結果、以下内容の妥結となった。
1.大同電力は大正11年度より26年間、年間3万円(合計78万円)を町村に寄付する
2.寄付金の30分の1は漁業組合に支払う
3.のこり(2万9千円)は町村ごとの事業影響度と山林等面積から分配割合を決める
4.寄付金は県に払い、県が町村へ分配する
5.分配金の半分は各町村の基本財産とし、のこりは毎年の経費に支出する
6.大同が新たな水利権取得時には分配金額の変更で対応する
これによって、漁業補償は千円で片づけられ、また今後の新たな補償交渉は行わない(3万円の分配比率の変更で対応)ことになってしまった。更に、大同と町村の間に県が入ることで、大同は町村からの直接の干渉は受けなくなった。

幻の計画

王滝村の鯎(うぶみ)川に貯水池を設け発電し、その水を阿寺川に放流するとともに発電所を建設して発電するというもの。阿寺川に送水し本谷と北沢合流地点の上流の本谷部に発電所を設ける。更に、この水と北沢の水を下流に送り川向に設ける発電所でも発電するという計画。村としても大筋合意する答申を県に出したが、現在に至るまで実現はしていない。

まとめ

一河川一会社主義にて木曽川の水利権の獲得を目指した福沢桃介は、地元に対する補償を想定範囲に収めるため様々な工作を行い、最終的にこれを達成した。100年経った今、現状を見る限り、須原にある大桑発電所取水堰堤は木曽川の水を完全取水することもあり建設当時のものと思われる狭い魚梯も木曽川に流れが無くなる以上、事実上意味がない。少なくとも木曽郡内における木曽川での漁業というものは事実上消滅しており木曽川が水力発電の為だけの川になってしまった感がある。この現状を見るなかで、福沢桃介が残したものが100年後の自分たちにとってどのような意味を持っているのが改めて考える必要があると思う。

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